何かしてあげようと思ったときは、その通りにした方がいいです。
ふと芽生えた親切心に背くと、負のスパイラルに入ります。
私はこのことを書籍『自分の小さな「箱」から脱出する方法』を読んで理解し、実体験を通して腹落ちしました。
親切心に背いた例
例えば、会社のオフィスにティッシュのゴミが落ちていたら、拾って捨ててあげようという親切心が芽生えます。
けれども、今もし拾ったら、「お前が落としたゴミだったのかという目で見られて周りから誤解されたら嫌だな」という気持ち、「誰かが鼻をかんだ後の汚いティッシュだったら嫌だな」と思う気持ち、あるいは、「ゴミ箱が遠いしやっぱ面倒だな」といった気持ちが頭をよぎり、ティッシュゴミを拾うのをやめてしまうとします。
そうすると、その後、自分の正当性を主張するための言い訳作りがが心の中で勝手に始まります。
あれはそもそも俺とは関係ないゴミだ、落としたやつが捨てるべきだ、とか、あのフロアにいるやつが気を遣って捨てるべきなんだとか。
怒りのようなものがゴミを落とした人やそのフロアの人たちに向かい、何だかイライラした気持ちになるのです。
自販機の前で、床にコーヒーの滴をこぼしてしまった時も同じです。
しかも、あいにくポケットティッシュを持っていません。
この場合、最寄りのトイレに行ってトイレットペーパーをちぎってきて、床を拭くが一つの解です。
ここでコーヒーの滴を拭かずに立ち去ると、あれくらいならほっといてもすぐ乾くはずだとか、定期的に点検にくる自販機のメーカー担当者が拭くべきだとか、こぼしやすいカップの形状だから、誰だってあの位はこぼすものだ、と考え、自然と正当化に終始します。
正当化の恐ろしさ
この「正当化」が恐ろしいのは、怒りとかイライラした負の感情が湧いてくることや、自己の正当化のための言い訳作りに思考能力が浪費されてしまう点にもありますが、何より、正当化するにあたり都合のいい解釈をして、現実を見る目がゆがめられることになります。
先ほどの例で言うと、ティッシュのゴミが落ちていたフロアのやつが悪いっていう発想なんて完全におかしいですからね。
だから、些細なことでも、親切心が芽生えたらその通りにする、が正解です。
その瞬間は面倒くさいと思うかもしれませんが、無視したらとんでもない背反があることを腹落ちしていると、躊躇しなくなります。
先ほどの著書『自分の小さな「箱」から脱出する方法』で言う「箱」とは、自分を正当化しようと躍起になっている状態を例えたものです。
自分が他の人のためにすべきだと感じたこと(親切心)に背いたときに、人は「箱」に入ります。
人間関係でも、自己の正当化のために、自分は悪くない、お前のせいだと相手を責めるときってありますよね。
私の過ち
先日、私の下の子どもがドアの前で指を押さえてワンワン泣き出しました。
そのすぐそばに上の子どもがいたので、上の子がふざけてドアを開け閉めしたから下の子の指がドアに挟まったものと思い、上の子を叱ってしまいました。
しかしながら、実際は下の子が自分でドアを開け閉めして遊んでいていたことが後で分かりました。
上の子に、疑ってごめんと謝りました。
上の子が下の子にちょっかいを出して泣かせることが度々あったということもあったのですが、私が上の子にやってあげようと思ってやらなかったことに端を発する「箱」も原因だったと思います。
土曜日は自転車に乗るのに付き合ってあげよう、けど面倒くさくなってやらなかった。
自分を正当化しようと、下の子にいたずらばかりする子は自転車に乗せない、といった言い訳や、もっと我慢してくれたらお昼から付き合ってあげたのに、と言った言い訳をし、上の子に対して「いたずらばかりする子」「我慢できない子」というレッテルを無意識に貼っていました。
そういう見方をしていたから、下の子が泣いたときに、また上の子の仕業だと思い込み、上の子を叱ってしまったのでした。
現実を見る目がゆがんでいたのです。
親切心が芽生える瞬間は、わりとしょっちゅうありますので、要注意です。