コミュニティの中の自分の存在意義って何なんだろう?
自分がコミュニティ内で孤立しているようが気がして、深く悩んだことがありました。
私はおしゃべりではないですし、声も通りません。自己主張も弱いので、自己主張の強い人たちの中にいると目立ちません。
いわゆる内向型人間です。
「私がここにいる意味あるのかな?」と悩んでは一人きりの時間を長くとり、精神的ダメージを回復させていました。近所の本屋さんで心理本や自己啓発本を立ち読みして、心のモヤモヤを晴らす言葉を探したりしていました。
昔から教育スタイルが変わらない義務教育の中にいる学生にとっては、いまだに「内向型=生きづらい」と思っている人が多いかもしれません。
実はそうでもないという話をこれからします。
むしろ、価値観の変化やインターネットの普及で内向的な人の方が生きやすい、過ごしやすいという話もします。
飲み会や集まりで孤立しても役に立っている
いたたまれない気持ちになる場面
みんなでワイワイやっているときにうまく会話の輪に入れず、落ち込んでふさぎ込むことってありませんか?
最初の元気なうちはみんなと普通にワイワイしようとするのですが、一息ついてしまうと先までのテンションに戻れず、口数も減って自分の内側にこもっていってしまう。そして、だんだんいたたまれなくなって、自分は何でこんなに人見知りなんだろうと悲しくなります。
私の場合、友達4人でドライブに行ったときや、友達の友達(あまり仲良くない)が参加する飲み会に行ったときに経験しました。
一度こういう経験をしてしまうと、次同じようなイベントがあったときに、行くかどうか躊躇してしまいます。
https://punhundon-lifeshift.com/post-394
飲み会のセーフティーネット役として
親しい人がいないアウェーな飲み会で、居心地が悪く、肩身の狭い思いをした経験はないでしょうか?
トイレに入るとホッし、飲み会が終わると「やっと解放された」と感じる、あの飲み会です。
そのような飲み会で、同じように一人でぽつんと飲んでいる人を見かけたらどう思いますか?
あるいは、あまり会話に入れていない人を見かけたらどう思いますか?
私なら、ホッとします。
ああ同じ仲間がいた、良かったって思い、安心します。
うまい言い回しではないですが、その方は安心感をもたらしてくれる飲み会のセーフティーネットであり、意図せず周りの(同じような)人たちを救ってくれています。
飲み会に限らず、こういう人って絶対必要だと思います。
私は、アウェーな飲み会で孤立しても、悲観的にならず、誰かのセーフティーネットになっているのならそれでいいと思い、ポジティブに考えるようにしています。
一緒にいて安らぐ人の価値は高い
「一緒にいて安らぐ」、「一緒にいて安心感がある」という良さ。
社会人になってからは、その良さを実感する機会にあまり恵まれず、正直忘れかけていました。 再び思い起こさせてくれたのがこちらのツイートです。
やさしいひととは、一緒にいて安らぎを覚えるひとなのだと思う。刺激を貰えるのは嬉しい。知識を貰えるのは嬉しい。盛り上がりを貰えることも嬉しいし、新しい世界を見せて貰えることも嬉しい。ただ、安らぎを生み出すひとには敵わない。あらゆる要素が活きるのは、安らぎがあってのことなのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) April 22, 2018
はっとさせられました。 今まで見たツイートで、一番の衝撃だったかもしれません。
そうだ、そうだったよ! 目立たないけどその人がいないと成り立たない。
私は学生の頃から、そういう縁の下の力持ちポジションに憧れて生きてきたんだった。
いつの間にかあまり意識しなくなっていたなあ。成果を出しても他者に届かなければ意味がないという考えに触れたせいだろうか。
でもこうやって言語化されたコメントを見て、安らぎを与える人の偉大さを再認識したよ。
これまでもきっと、職場でも家庭で、”一緒にいて安心感がある”という良さがいい影響を生んできたんじゃないかな。
「一緒にいて安心感があること」、今ではすっかり私の”座右の銘”になりました。
「寂しくない孤独」をもたらしてくれる人
今の奥さんと付き合い始めた当初、私と一緒にいると落ち着く、とよく言っていました。 奥さんが精神的に不安定になっていたときには、私が心の支えになっていたようです。
私が普段あまり怒らず、穏やかなことが理由かもしれません。
奥さんとの付き合いが長くなると、一緒にいて何かしゃべるわけでもなく、ただ同じ空間で各々の好きなことをやるっていうことが増えてきました。本を読んだりインターネットを見たり、ゲームをしたり・・・。
私はこの「寂しくない孤独」が好きです。
お互いに一緒にいることで精神的な安心が担保され、好きなことに没頭できる状態になっているんでしょう。
逆に一人だと、だんだん孤独感にさいなまれて精神的に不安定になり、好きなことに没頭できなくなります。
大学3回生のときの就活の時期
友達が言う、私の良いところは「何かやりたいことがあったとき、誘いやすいこと」、「しょうもないことでも誘ったらきてくれること」、「一緒にいて安心感があること」でした。
これを聞いたとき、「言っていることは合っているけど、これってわざわざ取り立てるほど良いところなのか?他に良いところがなかったから、こんなことしか挙がらなかったんでは」と考え、少し悲しくなったのを覚えています。
そして、「誘ったらきてくれる」って、裏を返せば主体性がないように聞こえますしね。
それでも友達は、それが良いところだとまじめに言うんです。 しかも一人だけじゃなく2~3人に言われました。
逆に、親友から見ると、私は何か面白そうなことを一緒に楽しめる存在だったのかもしれませんし、自分にはこいつがついてくれているといった安心感につながっていたのかもしれません。
聞き手に回れるという才能
私は、内向的な人が無理におしゃべりになる必要はないと考えています。
大学生の頃、心のモヤモヤを晴らすために本屋で立ち読みをして感銘を受けたのが、「聞き上手になろう」ということばです。どの本だったか忘れてしまいましたが、おそらく斎藤茂太氏の著書だったと思います。
コミュニケーションというのは話す、聞くの双方向のやりとりであって、聞き手がいないことには成立しません。
さらに、その本によると、聞き手に回るというのは非常に高いスキルが要るとのことでした。
私が大学生のときに読んだスティーブン・コヴィーの『7つの習慣』には、”第5の習慣:理解してから理解される”というものがあります。
相互理解のためには、まずは相手の話をよく聞いて理解しようということです。自分の自叙伝を持ち出すことなく、相手の話をありのまま聞いて理解することはとても難しいことだとも言っています。
最近、コーチングスキルが重要だと言われるゆえんです。
こういった、まずは聞き役から入ってコミュニケーションをドライブするのもアリなんだと思いました。
実は内向的な方がリーダーに向いている
本屋の自己啓発コーナーに行くと、リーダーシップに関する本がずらりと並んでいます。
私は、リーダーシップとは社交的で肝が据わっていて、周囲をぐんぐん引っ張っていくことだと思っていました。ですので、絶対自分の性格に合わないなあと感じていました。
しかしながら、様々な本を読んでいく中でリーダーシップに対する誤解が解けていきました。
一つは、先ほどの『7つの習慣』です。
“第2の習慣:目的を持って始める”に、リーダーシップについて言及したフレーズがあります。
“「マネジメントは物事を正しく行うことであり、リーダーシップは正しいことをすることである」ということだ。マネジメントは成功のはしごを能率よく昇ることであり、リーダーシップはかけ違っていないかどうかを判断することである。例えば、ジャングルの中で手斧を持って道を切り開いている作業チームのメンバーは生産者であり、直接に問題を解決しようとする人たちである。マネジャーたちはその後方に立ち、手斧を研いだり、方針や手順のマニュアルをつくったり、筋肉強化のプログラムを開発したり、新しい技術を導入したり、スケジュールを組んだり、作業員の賃金体系をつくったりする。では、リーダーとはどういうことをする人だろうか。それは、ジャングルの中で一番高い木に登り、全体を見渡して、下に向かって「このジャングルは違うぞ」と叫ぶ人なのである。しかし、仕事に追われて能率を重視する生産者やマネジャーたちが、その言葉を聞いても、一般的に示す反応は、「黙ってろ。作業は順調に進んでいるんだから」というものだ。”
“これがリーダーシップの本質なんだと腹落ちしました。
もう一つは、スーザン・ケインの『内向型人間の時代』です。
巻末に次のような一文があります。
“戦力である部下たちがイニシアチブをとるタイプならば、彼らは外向型のリーダーやカリスマ的なリーダーよりも内向型のリーダーの下で、よりよいパフォーマンスをすることを思い出そう。”
ガチンコ!ファイトクラブのような不良少年や、やる気のない学生を束ねるリーダーには内向型人間は不適ですが、自発的に動くメンバーから成る組織であれば、内向型リーダーの方がうまく回るということです。
別の記事で書きましたが、安心・安全が保障されると組織は自走するのであり、内向型リーダーはこの「安心・安全」を保障するのに長けている、ということなんだと思います。
https://punhundon-lifeshift.com/post-461
これらの本は、友達が私の良いところとして挙げてくれた「一緒にいて安心感があること」が、リーダーシップを取る場面でもアドバンテージになることを教えてくれました。
最近になって
自分のことを前面に押し出してアピールすることが苦手、そもそも好きではない。だけど、自分のことを周りに知って欲しいという欲求は強く持っている…。
内向的だけど、承認欲求は強い人ってたくさんいると思います。
昔は外交的でどんどん発信できる人が有利でしたが、最近はブログやSNSが普及したおかげで、内向的な人たちにとって明るい時代になってきています。
小中高時代:「能ある鷹は爪を隠す」でもうまくいく
学生の頃は「能ある鷹は爪を隠す」という言葉があるように、自分の能力や成果をむやみやたらとおおっぴろげにすることは恥ずかしいことだと思っていました。
学生の場合、テストの点数や順位で数値化されるため、わざわざ自分で言わなくても自ずと周囲の知るところとなります。
スポーツも同じで、能力がある人はレギュラーに抜擢され、成果を上げると表彰されたり、大会でいい成績を収めたりすることになり、嫌でもみんなに周知されることになるわけです。
大学時代~:爪を隠したままだと、誰も気づいてくれない
しかしながら、年を追うにつれて、学校のような画一的な評価体系ではなくなってきますので、その人にどんな能力があるのか、どんな成果を上げているのかが分かりにくくなります。
したがって、自分に中身が備わっていても見せ方が下手くそだと、その才能がうまく認知されないわけです。
ビジネスでも、いいものを作っていればよいのではなくて、顧客の手元に届くようにPRすることが必要です。
勝間和代の本にも書いてありましたが、書籍も書いたら終わりではなくて、どうやって売っていくかが重要だということです。表立ったアピールが苦手な自分の性分からすると耳の痛い忠言です。
最近:インターネットのおかげで、爪を見せやすくなった
一方、ブログやSNSといった、インターネットを介した場というのは、余計なパワーを使わずして自分のことを他社にアピールできます。最近では、むしろこっちの方が重要視されてきている風潮があります。
「能ある鷹は爪を隠す」への揺り戻しではありませんが、人それぞれの性分を問わないPRルートができたことで、内向的な人たちにとっては明るい時代になってきていると感じています。これを活用しない手はありません。
また、Facebookのように実名でつながる必要もないため、妙な気遣いは不要です。
コーヒー店や電車の中で黙々とスマホをいじる人たちを見ていると、母数として相当数の”視聴者”がいることを実感するとともに、ブログやSNSで情報を発信することのインパクトを感じざるを得ません。
ということで、誰かが見てくれていることを期待して、今後も情報発信を続けていきたいと思っています。

そもそも、内向型人間の方がコミュニケーション力が高かったりする
「コミュニケーション力」と聞くと、みんなとワイワイできることだったり、人見知りせず自分から話しかけられるといったイメージがあります。
多くの人は、コミュニケーション力が高い=外交的で喋り上手、と考えているのではないでしょうか。
しかしながら、企業が求めているコミュニケーション力は違うところにあります。
コミュニケーション力とは、自分のアウトプットを誰かに利用してもらうための力
こちらの記事を読んでなるほどなあと思いました。外交的かどうかはコミュニケーション能力に関係ないということです。
この記事によると、コミュニケーション力とは、「自分のアウトプットを誰かに利用してもらうための力」だと言います。
自分が何か仕事をしても、誰かに使ってもらえないと意味がありません。あらかじめ使ってもらいたい相手のことをよく理解してから、それに見合ったアウトプットに仕上げていくことが重要になります。
独りよがりではダメですよということですね。
相手がどんなアウトプットを必要としているか、どのように仕上げれば相手が使いやすいかを考えるには、相手の話をよく聞いたり分析したり、相手の立場になる力が要ります。したがって、コミュニケーション力=聞き上手、シミュレーション能力、という方がしっくりきます。
今はメールやインターネットがコミュニケーションのメインツールになっていますので、外交的であるかどうかはあまり重要じゃなくなっています。
内向型の方がコミュニケーションが上手なのかもしれない
私見を挟まずに話を聞いたり相手の考えをシミュレーションするには、会話の主導権を自然に相手に渡せる内向型の方が向いていると思います。
そして、下記の記事でも書きましたが、仕事は予め個々の仕事内容、テーマが決まっていますので、小学校の時にやった飯ごう炊飯のような完全なる「共同作業」とは違います。いわゆる「分業」です。

特に、専門性の高い仕事ほどその性質が強くなります。
米を洗う、火を起こす、カレーの具材を切るといった仕事のパイを積極的に取りに行くタイプよりも、予め火を起こす役割を与えられたら、強風、湿った薪といった制約条件の中でタイムリーに火を起こし、米を炊く役割の人に喜ばれる方が求められるということです。
どのタイミングまでに火を起こすべきか、どのくらいの火が必要か、何分くらい火を使うのか、を米を炊く人に聞いて、米を炊く様子をシミュレーションしながら、自分の仕事をする。
これがコミュニケーション力ということでしょう。
どちらかというと内向型である自分にとってはホッとするというか、ありがたい考え方です。小学校の頃の自分に教えてあげたいですね。
学びを前進させるためにヒマ(暇)であれ!
イケダハヤト氏のこちらのブログ記事。私はこれを読んで、雷に打たれたような衝撃を受けました。
“お金を稼ぎ続けたければ、常に時間に余裕を持っておくべし。パツパツになった時点で、新しいチャレンジに取り掛かることができなくなり、成長スピードが下がり、人材としての価値も落ちていく。長時間労働を続けると、身体の調子も悪くなりがちですし。”
暇であるってのはネガティブな意味ではなくて、流されて生きていかないために必要なことだという話です。
人生観が大きく変わりました。
ヒマが学問を生んだ:古代ギリシャの実話
当時のギリシャはアテネとかスパルタのような都市単位で一つの国家が形成されていました。都市国家とかポリスと呼ばれるものです。
女性はまだ市民扱いされていたかったため、市民=ギリシャ人男性だけだったのですが、なんせ労働は全て奴隷にやらせていましたので、彼らはすごいヒマでした。
ヒマな時間はアゴラと呼ばれる広場に集まって、人々とおしゃべりや議論をしていました。
その議論の中で、万物の根源って何だろうということが盛んに取り上げられ、様々な意見が出てきました。
水だと言う人。火だと言う人。原子(atom)だと言う人。正直、この頃に原子という概念が出てきたこと自体感動を覚えます。
そして、火、風、水、土の4つだと言う人。これはファイナルファンタジーのクリスタルそのものですね。
数だと言った人もいました。万物の根源は数だと言ったのはピタゴラスイッチ、じゃなくてピタゴラスです。
とにかく、世の中には万物の根源となる絶対的な何かがあるはずだと考えて、それを追究することが当時の風潮でした。こういった思考概念を自然哲学と言い、万物の根源をアルケーと言います。
ヒマが学問を生んだという歴史はとても興味深いです。
忙しくて知識を取り入れたり自分で考える余裕がないと、新しいものは何も生まれないし、何ら進歩しないということなんでしょう。
ヒマであること、つまり、通常業務は最小限にとどめ、時間的な余裕を持つことが大事なんだということがよく分かります。
なお、ヒマとは古代ギリシャ語でスコレー”schole”と言い、学校”school”の語源になっています。
持論をアウトプットする技術が重宝された時代
一方、その後、世の中には絶対的な何かがあるわけじゃなくて地域や人それぞれで違うんじゃないか、と考える人が出てきました。色々な地域を旅して、現地の人と話をして気づいたのでしょう。
みんなは既存の体制を絶対的なモノだと盲目的に信じているけど、本当はおかしいんじゃないかっていう問題提起をする人が増えてきました。そして、持論を相手にぶつけて、論破できたものが真理だという考え方が広がっていきました。
弁論にたける人がもてはやされる時代でした。持論をもとに様々な人に向けて講演したり教鞭を執る人も出てきました。弁論術を教える人も出てきました。こういった人たちをソフィストと言います。「教師」というのはこのあたりにルーツがあると言われています。
現代の社会人もヒマになるべきだし、持論をアウトプットすべき
社会人って忙しいことが吉だと思っていましたが、今は学びを前進させるためにはヒマであれという考えが腹落ちしています。
また、ソフィストのように、考えは人それぞれということを前提に持論を外へ拡散・展開していく考え方は、ブログやSNSでアウトプットして持論を醸造させたいと考えている今の私にもしっくりきます。
新しい学問、技術の進歩が著しい今日この頃。
働きアリになって目の前の仕事ばかりに手を掛けていると新しい知識や技術にキャッチアップできなくなり、5年後10年後に痛い思いをします。
知識や技術を身につけるには、多くの時間を投資する必要があります。
そして、アウトプットしながら知識や技術を自分のものにしていく。
古代ギリシャの歴史から学ぶことは多いです。
